てぃーだブログ › すべては風の中に › 書評 › ものさしを変えよう

2013年08月31日

ものさしを変えよう

伝統的な武術に興味がある。
とは言っても、ニンジャなどの類ではない。

日本で古武術が少しブームになりかけた時、
カルチャーセンターの一日講座で甲野善紀氏の
古武術を実際に体験したこともある。

もとはと言えば、甲野氏の『表の体育、裏の体育』という
本を読み、ある種のインスピレーションを得たことがきっかけだ。
1986年の本だから、かなり前になる。

前近代の身体の使い方と近代以後とでは全く異なる、
今ではよく知られる「ナンバ歩き」の話や合気道の近代史など、
が書かれていたように思う。

また、自分の専門分野である中国史に関わる
カンフー、気功、武侠小説などにも関心を持ち続けてきた。

思えば、体力的にも弱く、気も弱い自分が甲野氏の議論に
興味を持ったかといえば、彼の視野の広さにある。
武術であるから、強さを追求し、厳しい鍛錬を強いると
考えがちだが、甲野氏は身体の動きを合理的に説明する。
体育系にありがちな精神論や神秘主義とも一線を画する。

そして、その甲野氏の友人の一人に内田樹氏がいる。
その内田氏の新刊を読んだ。

『修行論』と題した新書は、彼自身の合気道修行のなかで
獲得した、さまざまな経験や思索が記されている。

「武道」における目標、「無敵」とは」「瞑想とは」など、
かなり深い内容ではあるが、とてもわかりやすい言葉で
説明されている。

武道の話だけに終始しない点が甲野氏と同じだ。
他の領域にも応用できる「考え方」が随所に出てくる。

スポーツ競技で見られる「減点法」や勝敗を競う、
やり方が批判される。

「減点できる」ということは、「満点を知っている」ということだ。
つまり、「満点答案」が手元になければ、採点はできない。
しかし、「完成形」というものを想定することは、
すでに「単一の度量衡」に「居着く」ことを意味している。

武道の世界では、この「居着く」ことを忌避する。
それまで自分の身体運用を説明するときに用いていた
語彙では説明がつかないような、動きが「できてしまった」時、
これがブレークスルーという体験だという。

これは広く他の分野でも起こりうることだろう。
旧来の理論では説明がつかない事態に直面した時、
全く違った角度で分析したら、うまくいったなど。

実は人間の身体には、これまでの科学では説明の
つかない可能性があることは容易に想像できる。
医学についても、近代医学が普及しても、伝統医学や
その他の癒し療法が廃れないのには理由があるのだろう。

本書の最後では、司馬遼太郎の剣客小説には、不思議と
修行論が欠如していることを論じている。司馬氏が生きた
時代や彼自信の軍隊経験が左右している。

剣客小説が修行論や武道についてあまり触れないのは、
日本ならではなのかもしれない。中国の武侠小説には、
これでもか、というほど身体運用の記述が出てくる。
「気をめぐらす」ことなしに戦いは有りえないのが、中国的だ。

そして、内田氏がたびたび引用する中島敦の小説にこそ、
武道のヒント描かれているのだ、ということがわかった。




考え方の「物差し」を変えたい人におすすめ。






同じカテゴリー(書評)の記事
やっぱり読書が一番
やっぱり読書が一番(2014-05-05 12:09)

がっかりな本
がっかりな本(2013-11-21 22:44)

新書をながめる
新書をながめる(2013-04-04 22:48)

イギリス映画の世界
イギリス映画の世界(2012-03-24 17:42)


Posted by ドクトルふぁん at 17:58│Comments(0)書評
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。